「先生、その語彙は、未習語彙ですね。ちゃんと提出語彙を調べましたか?」
これは、「語彙のコントロール」と言われるものです。
養成講座の模擬授業や、応募した学校での模擬授業で、耳にタコができるぐらい聞く言葉です。
養成講座の実習担当の講師は、受講生の教案と模擬授業を見て、目を光らせています。「この教師は未習の文型を使っていないか?未習の語彙を使っていないか?」と。
そんなに語彙のコントロールが大事なのか?はたして本当に未習の語彙を使ってはいけないのか?
私の見解は、
「使ってもいい」です。
ある前提に基づいて、私は「使ってもいい」と考えています。
この私の考えを「ない形」の文型導入を例に見ていきたいと思います。
養成講座での教え
「その言い方はまだ使えません」とか、「その言葉(語彙)は、もっとあとで習いますから」と、実習担当講師から何度も注意された方がいるかと思います。そのせいで教案が全然書けなくなってしまうこともあるかもしれません。
養成講座で「文型のコントロール」「語彙のコントロール」について、なぜそんなに注意されなければいけないのでしょうか?
養成講座で実習を担当し、専任講師として多くの講師の模擬授業を見てきた経験から、説明していきたいと思います。
私は、文型や語彙のコントロールが必要な理由は、大きく2つあると考えています。
- 「ノイズ」になる
- 「将来のため」
この2つについて見ていきましょう。
コントロールが必要な理由 その1「ノイズ」になる
未習の文型、未習の語彙を教師が使うことは、学生にとって「ノイズ」だからです。養成講座の受講生は、実際の現場を実感しにくいため、「ノイズ」であることを意識しづらいです。
日本語学校に通い始めたばかりで、日本語が耳になれていない学生は、知っている語彙が聞こえてこないか、わかる単語がないか、注意して聞いています。そして、まず教科書に出てきた語彙やよく使うフレーズは拾えるようになっていきます。
しかし、知らないことばが多いと、知っていることばが埋もれてしまい、聞き取れなくなってしまいます。また、知らないことばを聞き取ると、それがどんな意味なのか考えている間に、話は流れていき、大事なことを聞き逃してしまったりします。
学生がそうならないためにも、教師は文型も語彙もコントロールしなければなりません。
養成講座では、教師は一言一句話す予定の日本語を教案に書き、台本を作らなけばいけないというような指導をします。これで、ノイズが減ることになります。
コントロールが必要な理由 その2「将来のため」
文型や語彙のコントロールが必要な理由のもう一つは、「日本語教師としての将来のため」といえるでしょう。
文法や語彙のコントロールができるようになることの一番のメリットは、「学習者のレベルに応じた言葉づかいが自然とできるようになる」という点ではないでしょうか。
仕事を始めたばかりのころは、この文型・語彙は既習かな?未習かな?と調べることが多いでしょう。しかし、何度も繰り返し調べるようになるうちに自然と文型や語彙の提出順序を覚えていき、これが授業の中での言葉づかいにも活かされていくと思います。
さらに、こういった授業の積み重ねによって、上級の文型や語彙でも、やさしいことばで説明ができるようになっていきます。
現場からわかること
ここまで文型と語彙のコントロールの必要性を書いてきましたが、ここまでは養成講座で言われることや、実習を見ているベテラン教師の立場からみたものです。
しかし、文型や語彙のコントロールの弊害ともいえるものもあります。それは、
という2つです。
コントロールの弊害 その1「見たことがある」
これは、私が専任教師として、講師募集に携わり、多くの模擬授業を見てきた経験から書きたいと思います。
それは、「見たことがある、同じような教案ができあがる」ということです。これを弊害といったら言い過ぎと言われるかもしれませんが、一つの事実であることは間違いありません。
よく考えれば当たり前といえます。使える文型と使える語彙が決められていれば、自ずと考えることは似通ってきます。これは新人教師でもベテラン教師でもほとんど差が出てきません。
私が見た模擬授業では、ある文型について、8人中7人がほぼ同じ導入場面・導入方法だったことがあります。日本語教師の経験は半年ぐらいから5年以上の方もいました。
採用する側としては、未経験や経験の浅い教師の場合を除いて、「また同じパターンかぁ…」「これで本当に良いのかなぁ?」「工夫が見られないなぁ」と思ってしまいます。これでは、多くの応募があった場合には、採用されにくくなってしまいます。
同じ教案だからこそ、教師の個性が求められるという考え方もできます。ここでは、この考えは触れずおこうと思います。
コントロールの弊害 その2「先生は、そんな日本語、使いますか?」
弊害のもう一つは、「不自然な例文をつくってしまう」ということです。
特に養成講座の受講生や経験の浅い教師は、文型と語彙のコントロールを意識するあまりに、不自然な日本語をつくってしまいがちです。
そんな不自然な例文をつくった教師に対し、「先生は、そんな日本語、使いますか?」と実習担当講師や模擬授業を見ている先生はよく言います。
5、6つ例文やドリルを作っても、半分以上不自然だと指摘されることはよくあります。時間をかけて教案を書いても、添削ばかりでは、やる気をなくしてしまいます。
語彙のコントロールって本当に必要?
「誰が作っても同じような教案や、時間をかけて教案を書いたのに、不自然な例文やドリルを作ってしまうぐらいなら、語彙のコントロールなんてしなくてもいいんじゃないか」というのが、私の考えです。
一つだけ断りを入れておきます。私は「文型のコントロール」は絶対に必要であるという考えです。これは、例外なく抑えなければいけないと考えています。私にとって、未習文型はノイズでしかないからです。と考えています。
個人的に、「語彙のコントロール」は、文型のコントロールほど厳しくないと思っています。いう考え方です。「語彙のコントロール」には猶予があるという感じでしょうか。
「語彙のコントロールなんてしなくてもいいんじゃないか」と言っても、なんでもかんでも自由にやっていいわけではありません。のかというと、私は、自分の経験に基づいたルールに従って教案を書いています。
最低限、以下のルールを守って作れば、問題なく教案を書き上げられると思います。
語彙コントロールのポイント:未習語彙を使うなら
未習語彙を使ってもいい品詞や条件がいくつかあります。
名詞
名詞の中でも、一般名詞または固有名詞であり、かつ、写真などで見せたら説明が終わるものであれば、使っても良いでしょう。
例えば、私が使ったことがあるものでいえば、
などがあります。
動詞
名詞と同様に、動詞の場合も動作を写真などで見せられたり、ジェスチャーで説明が終わるものであれば、使っても良いでしょう。
しかし、写真やジェスチャーで見せられるからといって、「とる」のような動詞は、未習のときに導入してはいけません。「(落ちているものをとってもらう)それ、とって。」の「とる」は、「拾う」との違いや、「持つ」との違いを質問される可能性があります。
説明するのに必ず必要と考えられるもの
これは、教案例で見ていきたいと思いますが、「ある文型の導入場面に欠かせない」と判断できるものは、未習でも使うべきだと考えます。
未習語彙の数
使っても良いと書きましたが、やはり学生にとっては新しく学ぶことばですから、一つの文型導入に2、3つにとどめて、くれぐれも使いすぎに注意しましょう。
「ない形」の導入でみる未習語彙の使い方
なければなりません
Tは教師。Sは学生。PCは絵カード。
T:(バイクのPCを見せて)バイクです。(バイク:板書する)
みなさん、国で、バイクに乗りますか。(Sにきく)
S:(はい/いいえ)
T:(乗る学生に)これは何ですか?
(ヘルメットのPCを見せる)
S:???日本語で何ですか。
T:ヘルメットです。(ヘルメット:板書する)
ヘルメット。みなさん、言ってください。
S:ヘルメット。
T:ヘルメットをかぶります。(をかぶります:板書する)
かぶります。(ジェスチャー)
ヘルメットをかぶります。言ってください。(板書を指して)
S:ヘルメットをかぶります。
T:(バイクに乗るSを指名して)○○さん、国でバイクに乗ります。
○○さん、ヘルメットをかぶりますか?
S:はい、かぶります。(いいえの学生はほとんどいないはず。)
T:○○さんの国も、日本も(中国も、タイも…)ヘルメットをかぶります。
バイクに乗ります。ヘルメットをかぶらなければなりません。
(文型導入)
ここでは、「ヘルメット」「かぶる」という語彙が出てきます。普通の教科書ではどちらの語彙も初級の前半には出てきません。
しかし、「なければならない」という義務の意味をわかりやすく導入するために、バイクを運転するという場面を考えました。これは未習語彙かどうかを考えていたら、絶対に使うことができない場面です。
語彙の提出順を考えたら、「靴を脱がなければなりません」とか「お金を払わなければなりません」になると思います。もちろん、間違いはありませんし、学生も理解できると思います。
しかし、私はどうしても「誰でも考えうる、どこかで見たような教案」という印象が拭えません。「既習語彙で意味も間違いないんだから良いでしょ」と言うかもしれませんが、学生にもっとインパクトを残したくないですか?
語彙のコントロールの外に出れば、経験の浅い日本語教師でも印象に残る導入ができるはずです。私がここで書いた導入よりももっと良い導入を生み出せると思います。
「なければなりません」と対になる「なくてもいいです」を見ながら、もう少し考えていきましょう。
なくてもいいです
Tは教師。Sは学生。PCは絵カード。
(バイクに乗る話の続きをする。)
T:××さんの国で、バイクに乗ります。
ヘルメットをかぶらなければなりませんか?(疑問文提示)
S:はい。かぶらなければなりません。
(「はい」の文は作れるはず:板書する)
T:△△さん、日本で、バイクに乗ります。
ヘルメットをかぶらなければなりませんか。
S:はい。かぶらなければなりません。
T:そうですね。日本で、バイクに乗ります。ヘルメットをかぶらなければなりません。
これを見てください。(アメリカのバイカーの写真)
アメリカ人です。かぶらなくてもいいです。
(「いいえ」で文。文型提示:板書する)
(アメリカの地図を使う。州法を調べておく。)
アメリカのここ(州法でOKの州)です。
ヘルメットをかぶらなくてもいいです。
これを見てください。(1970年代の日本、バイクに乗っているPC)
日本人です。ヘルメットをかぶっていますか?(て形ていますの復習)
S:かぶっていません。
T:(1970年代の法律で)ヘルメットをかぶらなくてもよかったです。(過去形の導入)
バイクの話題のまま、「なければなりません」から「なくてもいいです」へ自然な流れで話が進みました。自然な流れで話題が飛ばずに教案が書けたのも、語彙のコントロールから外れたからです。
先ほど出した「靴を脱がなければなりません」や「お金を払わなければなりません」を使って「なくてもいいです」が出てくるようにするとしたら、「自宅とホテルの部屋との違い」や、「お店での買い物と町で配っているフリーペーパーやティッシュの違い」などを話題にするでしょう。
「(ホテルの部屋で)靴を脱がなくてもいいです」、「(町で配っているティッシュをもらって)お金を払わなくてもいいです」という2つの文に、どうしても私は違和感を覚えます。
ホテルで間違えて靴を脱いで部屋に入ってしまって「あっ!脱がなくてもいいんだ」と言うでしょうか?そもそも靴なんて気にしないで自然に部屋に入ると思います。
ティッシュやフリーペーパーをもらって、「お金を払わなくてもいい」と思うでしょうか。
「アメリカのこの州は、ヘルメットをかぶらなくてもいい。」、「1970年代の日本では、ヘルメットをかぶらなくてもよかった」こちらのほうが、しっくりくるのではないでしょうか。(※正式には1986年から全ての道路とバイクで、ヘルメット着用義務。)
文法の意味、接続の形が正しくても、本当に口に出てくる日本語か?そこまで考えると、語彙のコントロールは、必要に応じて、そこから外れたほうが良いと私は考えます。
まとめ
語彙のコントロールが必要か?ということについて、教案を例に見てきました。
文型や語彙のコントロールは、日本語教師の能力として、また、教科書の構成を理解する上でも大切であることは間違いないでしょう。
しかし、養成講座の受講生や経験の浅いうちは、それが足かせとなって、教案作成が進まなくなったりすることが多々あります。
語彙コントロールはできることに越したことはありませんが、本当に必要なら、名詞や動詞で2、3つ程度使ってみるのも良いと思います。
たった2、3つの語彙で学生の印象に残る教案ができるなら、こんなに楽なことはありませんよね。
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